ロング・ロング・ジャーニー
おそらく往復1500km、自分史的に15年をかけた旅から戻る。要するに出身大学と出身大学院に卒業証明を取りに行った。それぞれ自分が卒業して以来信じがたい変貌を遂げており、見知った風景を探す方が難しかった。それを見つけてようやくほっとしたり。行きつけだった定食屋の看板を遠くに見たりする。
旅先の光景は鮮明に記憶される。渉った交差点の信号のタイミングや立ち寄った店の店員の顔、列車で隣り合った人間など。寝ようとして目を閉じるとすぐにそれらの映像は怒濤のようにプレイバックする。日帰りでも旅は日常にない強烈な刺激の連続なのがよく分かる。寝ようしてそういう映像が見えた日は、充実した一日を送れたのであり、満足して寝ることができる。
さてこの旅が禁煙的にどうかというと、十年以上前にそれなりに時間を過ごした場所を訪れるのに多少の懐旧の情が起こらないわけがない。正確には懐かしさも満載で自分が歩いた場所をくまなく歩いて、行きつけだった店には全部入りたいのだが、そんな時間があるわけもない。新しくなった大学の構内を歩く時間さえなかった。そして、かつて夕バコを吸いながら眺めていた風景の中にもう一度立つとき、夕バコが要らないなんてどうして言えようか!?
開高健が夕バコと記憶の関係について書いている。氏が夜更けに
うぐ、吸いてー。
夜更けに愛用のパイプに火を入れ、あるいは共に銃火をくぐったジッポなんかで夕バコに火を付けるとき、紫煙のなかにかつて見たメコンやアマゾンや戦後の闇市がよみがえるのだそうだ。そのように夕バコには記憶を鮮烈に固定し蘇らせる作用がある。
かつて夕バコを吸った場所でもう一度夕バコを吸いたい。たぶんこれが最も強烈な喫煙の欲求だと思う。そして、思い出す過去の喫煙の記憶は得てして強烈なもので、疲労困憊のあまり笑いたくなるほどの仕事のあとや、困窮のすえ小銭をかき集めて最後に買った一箱、などなど。
ぐぅ、あまり書くとホントに吸いそうだ。とにかく吸わずに乗り切って無事帰ってきた。それほどの欲求だったがなぜか二コレッ卜は使わなかった。記憶からくる欲求だったからだろう。